たんぽぽコラム

おうちでの看取り

著者:永井康徳

  

第10回 大切な人の『死に目』に会うということ

「大切な人の死に目に会えない」ことは不幸なことなのでしょうか?それどころか、この「思い込み」が逆に人を不幸にしているのかもしれないと私は思うのです。

高齢で寝たきりの母親を看ていた姉妹がおられました。二人とも仕事をされていたので、日中の介護は主に家政婦さんにお願いしていました。時を経て、食べられなくなり、胃ろう栄養を選択しましたが、手厚い介護のおかげで、比較的落ち着いた日々を過ごされていました。娘さんたちはお母さんがこのまま自宅で穏やかに最期を迎えることを望んでいました。

徐々にお母さんの身体が弱ってきた時、呼吸が突然止まった時の対応を話し合うことになりました。すると、娘さんたちから「呼吸が止まった時は、人工呼吸をしてほしい」と、思いがけない言葉が返ってきたのです。しかし、お母さんが急変した時、決して救急搬送はしないこと、自宅での自然な看取りを望むという娘さんたちの気持ちに変わりはありません。それなのに、なぜ最後に人工呼吸を望むのかと疑問に思いました。

そこで私は、お母さんの体は老化が進んでいることを丁寧にお話し、「息をひきとる瞬間をみることが大切なのではなく、お母さんが楽に逝けることが一番大切なのです」と付け加えました。すると、それを聞いた娘さんたちは、大きな息をひとつつき、「先生のお話を聞いて私たちの肩の荷がおりました」と、ずっと抱えていた思いを話されました。

娘さんたちは、お母さんのそばにずっといてあげられないことを申し訳なく思っていたそうです。最期の瞬間に間に合わないかもしれないことに、娘としての罪悪感を抱き、せめて自分たちが駆けつけるまで人工呼吸で息をつなぎとめてほしいと考えていたのです。そんな娘さんたちの思いに寄り添い、再び話し合った結果、「人工呼吸はしなくていい」と納得されました。そして、できるだけ自然に、お母さんが苦しむことなく、天寿を全うできるよう、みんなで看ていこうと再確認したのです。

現在の日本では、多くの人が「大切な人の『死に目』に会う」ことが大切だと思っています。しかし実際には、病院や施設の看取りでも、最期の瞬間はみていないことも多いのです。「亡くなる時に大切な事は、その瞬間をみることではなく、本人が楽に逝けること」。そのことを理解すれば、多くのご家族はほっと胸をなでおろします。多死社会を迎える日本で、そのように意識が変われば、私たちの看取りのあり方も変わっていくのではないでしょうか?

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