たんぽぽコラム

おうちでの看取り

著者:永井康徳

  

第15回 死に向き合う

今の時代、「がん」という病名の告知が本人にされることは一般的になりました。しかし、病名は告げたけれど、その後本人との対話が十分になされておらず、本人も家族も、そして医師すらも死に向き合えていないと感じることが多くあります。

家族には「年は越せないかも」「お盆まで持つかどうか」などと、亡くなる頃を予測する話をしますが、本人にはその真実を告げられないことがまだまだ多いと思います。「本人に本当のことを知らせるのはかわいそうだ」という家族の思いから、本人の意思は蚊帳の外となって治療やケアの方針が決められていくのです。

残された命の具体的な期間を伝えることが重要なのではありません。自分の命が「限られた命」だと認識することが大切なのです。人間は生まれたらいつか必ず亡くなることをお伝えすると、多くの人は「その通りだ」と納得されます。これからどう生きるかを考える方向性は、死に向き合っているかそうでないかで大きく違ってくると思うのです。死に向き合うことで、その限られた貴重な時間を自分はどう過ごしたいのか、本当の意味で考えることができると思います。

本人が亡くなった後で本当はどうしたかったのだろうと思い悩む家族はことのほか多いと思います。本人が意思表示できるのならば、どのような選択を望むのか、本人と向き合って話をしておきましょう。一つでも本人の願いがかなったならば、遺される家族はどんなにか気持ちが楽になることでしょう。

本人への告知を避けるのは、医師自身も患者の死に向き合えていないからだと思います。日本の医療は「病気を治すこと」を目指してきました。そして、多くの医師は「死は医療の敗北」だと考えてきたのです。医学教育においても、「死に向き合う」という具体的なことは教えられていないのが実情です。医師が患者の死に向き合えずに、どうして患者や家族が死に向き合うことができるでしょうか。

戦後、日本の医療は、早期に病気を見つけ、診断して治療することを目的に発展してきました。そして多くの人がその恩恵を十分受けてきました。しかし、超高齢社会を迎え、亡くなる人の多くが高齢者となる「多死社会」へと時代は変化しています。これからは「長生き」を目指す医療から、「いつか亡くなるその時に、どんな最期を迎えたいか」という看取りの質を高める医療が求められていくでしょう。そのためにも、「死に向き合う」ことは、今後の医療の変革への「試金石」となるのではないかと私は思うのです。

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