たんぽぽコラム

おうちでの看取り

著者:永井康徳

  

第18回 自然に逝くということ

人は皆、亡くなる前には食物がとれなくなります。在宅医療の対象となる方は、すでに食事ができないか、近い将来、食事ができなくなる方がほとんどです。そのため在宅医療では「食べられなくなったらどうするのか?」を考えることはとても大切な課題なのです。
機能回復のために「食べる」訓練をすることは、重要で価値のあることですが、いつかまた食べられなくなります。亡くなる前には食べられなくなる日が来ることにしっかりと向き合っておく必要があります。

人が自然に亡くなる過程をご存知でしょうか?人は亡くなる前に食べられない状態になると脱水状態となり、徐々に眠くなる時間が増えてADL(日常生活動作)が低下していきます。これは子供の成長と逆に考えればわかりやすいでしょう。生まれたばかりの子供は自分で寝返りをすることもできません。介護保険で言えば要介護5の状態ですね。この状態から次第に食事量が増えていき、起きている時間が長くなり、成長と共に介護度が減っていくわけです。
人間の終末期はこの逆です。なぜ亡くなる前に食べられなくなるかというと、体の機能が衰え、水分が処理できなくなるからです。このような状態で強制的に水分や栄養を取り入れていくと、身体がむくんだり腹水や痰がたまったりしてかえって本人をしんどくさせてしまいます。

このような理由から、私は「体で処理できなくなったらできるだけ脱水状態にして、自然に看ていくのが最期を楽にする方法です」と説明しています。死は病気ではないので体の状態に合った傾眠とADL、そして飲食の摂取があれば、痰の吸引も必要なく呼吸も穏やかなままに最期を迎えることができると考えています。

もう20年ほど前、私が僻地診療所に勤務した頃のこと。私も病院勤務の経験しかなく、食べられなくなったら点滴をして状態が悪ければ入院をさせるということしか頭にありませんでした。
地域で最高齢の102才のおばあさんの訪問診療をしていましたが、その方は長年脳梗塞で寝たきりの状態で、長男夫婦の手厚い介護を受けて自宅で療養されていました。しかし、徐々に状態が悪化し食事ができなくなったのです。長男夫婦は本人が高齢のため入院は望みませんでしたが、食事ができないことを心配して点滴を希望されました。私は患者さんであるおばあさんに、食事ができていないから点滴をすることを告げましたが、本人は「食事ができないようになったら終わりだから、絶対に点滴はしてくれるな」ときっぱりと言われました。その後も何度も家族の依頼を受けて本人に点滴を勧めましたが、頑として受け入れません。どうすべきか悩みましたが、私は本人を押さえつけてまで点滴をすることはできませんでした。そんなことをすれば、患者さんのこれまで生きてきた102年の最期を汚してしまう気がしたのです。その後は、本人の希望通り点滴をせずに自然に看ていきました。点滴をしないとむくみもなく、痰も出ず、楽そうでした。私は点滴や他の医療処置をせず患者さんを最期まで自然に看ていったのは、このときが初めてでした。

2週間ほどして息を引き取られましたが、おばあさんの最期の顔はとても穏やかで凛とされていました。もし本人の意志に反して点滴をしていたら、むくみが出たり痰の吸引で本人に苦痛を強いていたことでしょう。本人の天寿を全うすることを医療が邪魔をしない。そんな自然な看取りもあるのだということを、この患者さんから教わりました。

私が沖縄のある離島を旅行した時に地元の方から聞いたお話ですが、その島の高齢者は病院ではなくほとんどの方が自宅で看取られるのだそうです。それだけでなく、老衰で亡くなると大往生できたといって赤飯を炊いてお祝いするのだと。在宅医療が普及しているわけでもないのに自宅での看取りが根付いている理由の一つは、この島の「大往生をお祝いする」、すなわち「天寿を全うした死を肯定的に受け入れる」という住民の意識ではないかと考えます。 超高齢化が進み、死亡者が増加する多死社会を迎える日本ではこのような天寿を受け入れる住民の意識改革が必要になってくるのではないかと思っています。

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