たんぽぽコラム

おうちでの看取り

著者:永井康徳

  

第29回 息を引き取る瞬間を誰かがみていなくてもいいんですよ【前半】

「夜、爪を切ると親の死に目に会えない」という迷信を聞いたことがあるでしょうか?これは「夜に爪を切ることは、親の死に目に立ち会えないという不幸が起こるほどに縁起の悪いことだからやめておきなさい」というような意味で、今はどうかは知りませんが、私が子どもの頃は、夜に爪を切ろうとすると年配者からこの言葉とともに注意されたものです。

それにしても、「大切な人の死に目に会えない」ことは、それほどに忌むべき不幸なことなのでしょうか。それどころか、この「思い込み」が逆に、多くの人を不幸にしているかもしれないと私は思うのです。

私の講演会に、高齢で寝たきりのお母さんを介護しているという娘さんたちが参加されていました。お母さんは寝たきりで胃ろう栄養をしており、当院からの訪問診療を希望されました。長女さんも次女さんも、積極的に社会活動をされていたため介護に専念できず、お母さんの介護は24時間の家政婦さんにお願いしていましたが、手厚い介護のおかげで状態は落ち着いていました。そして、「人生会議」を定期的に行い、最期は病院には行かず、自宅で自然に看取ることを家族や関係者で話し合っていました。

ある訪問診療の日のことです。娘さんたちの母親を担当する当院の医師が、無呼吸が頻発するお母さんの状態を心配して、「このところ呼吸をしない時間が長引いているようですが、このまま呼吸が止まったときはどうされますか?」と伺ったのです。「そのまま自然に看取る」という話になるだろうと思っていたところ、「自分たちがいないときに亡くなるのはかわいそうだから、急に息が止まったときはマウスツーマウスをしてほしい」と言われたのです。マウスツーマウスは人工呼吸法の一つですから、「自然な看取り」ではなく、蘇生を希望しているということになります。内心驚いた担当医師は、老衰で亡くなるような状態なのに蘇生を試みることの意味や本人はそれを望んでいるのかといった話をしたのですが、娘さんたちは納得されませんでした。

このことは翌朝のミーティングでも議題に上がり、話し合いの末に私が娘さんたちと話すことになりました。
私は娘さんたちに、こう切り出しました。「今、お母さんは落ち着いているので、この状態をできるだけ維持できるようにしていきましょう」と、そして、無呼吸が頻回に起こるのは、老衰による脳の障害から起こっていることも説明しました。その上で、娘さんたちに気持ちを伺うと容態が急変した場合でも病院への搬送は望んでおらず、最期は自宅で、蘇生などの医療処置を受けずに自然のままに看取ることを望んでいるということでした。自宅での自然な看取りを希望しているにもかかわらず、なぜマウスツーマウスを希望されるのだろうと疑問に思いながらも、私は自宅での看取りを希望されるご家族にお伝えしていることを話しました。それは亡くなる最期の瞬間、死の間際のお話です。
「息を引き取る瞬間をみていなくてもいいんですよ。一番大切なことは、お母さんが楽に逝けることです。病院や施設でも、実は最期の瞬間はみていないことが多いんですよ」私がこう話すと、ふたりの娘さんは大きな息をつき、胸をなでおろすようにしてこういいました。「そうなんですか。先生のその話を聞いて、私達の肩の荷がおりました」と。

娘さんたちは、母親を自分たちの手で介護できないことを本心では申し訳なく思っていたようです。常にそばにいないだけに、死の間際に立ち会えない可能性も高く、そのことに罪悪感を感じていたのでしょう。そのため、「亡くなるその時」を少しでも伸ばして、自分たちが駆けつける可能性を高めようと考えていたようなのです。すぐにマウスツーマウスはしないこととなり、できるだけ自然に、お母さんが苦しまずに天寿を全うできるように介護をしていく方針となりました。

在宅医療や自宅での看取りについての講義を研修医に行った後、ふと一人の研修医を見ると、彼女の目から涙があふれていました。講義後の感想文には、その理由が書かれていました。
彼女は3年前に父親をがんで亡くしたのですが、父親が亡くなる瞬間に立ち会えなかったことをとても悔やんでいたのです。その日、授業の後に調べ物をしようとして図書館に立ち寄ったところ、父親が息を引き取ったという連絡を受けたそうです。「あのとき、図書館に立ち寄っていなければ、お父さんの死に目に会えたのに・・・」という思いを3年間、ずっと引きずっていたとのことでした。それは、彼女の母親も同じで、そばでずっと看病していたにもかかわらず、ちょっと目を離した隙きにご主人が息を引き取っていたそうで、「なぜ、あのとき気づかなかったのか・・・」と、とても後悔しているというのです。そのことを娘である研修医に話すそうですが、彼女は慰める言葉も持たず、ただ聞くことしかできなかったそうです。

しかし、私の講義で「亡くなる瞬間を誰かがみていなくてよい。亡くなる瞬間をみていることが大切なのではなく、本人が楽に逝けることが一番大切だ」と聞いてハッとし、本当にその通りだと思ったというのです。研修医の講義後の感想文には、こんな一文もありました。「『亡くなる瞬間を誰かがそばでみていなくていい・・・』この言葉は、家族を看取ろうしている介護者に必ず説明しておくべきだと思います。亡くなる時にそばにいて、誰かがみていなくてもいいということを事前にご家族に伝えてあげるだけで、看取るまでや亡くなってからも気持ちがとても楽になると思います」

最期の瞬間は誰かがそばでみていなくてもいい。最期の瞬間にそばにいることよりもむしろ、亡くなるまでの間に何をしてあげられたのか、その人の想いに寄り添えたのかの方が大切だと私は考えています。
しかし、その第一歩として、患者さん本人もご家族も、そして患者さんに関わる医療・介護従事者も「死に向き合う」ことが必要になります。「死に向き合う」ことが、納得できる看取りにつながることを、先ほどの研修医の経験を通して次回お話したいと思います。

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