たんぽぽコラム

おうちでの看取り

著者:永井康徳

  

第47回 「その人にとっての最善」を最期まで追求する

96歳のカズ子さんは、訪問診療を受けながら、一人で静かに人生を終えたいと願っていました。
彼女は独居での看取りを希望し、尊厳死宣言や献体の手続きまで済ませ、最期まで自分らしく生きる準備を整えていました。
「病院ではなく、自宅で、静かに自然な形で逝きたい」と希望され、そして何より、「県外にいる長男には絶対に連絡しないでほしい」と強く望んでいたのです。
その意思は一貫していて、公正証書での遺言まで準備されており、死後にだけ息子に知らせが届くようにしていました。
そんな中、誤嚥性肺炎で体調が急変。入院を勧めても、カズ子さんは頑なに拒否。「このまま亡くなっても構わない」と語る姿に、私たち支援チームも覚悟を決めました。

でも・・・本当に、このままでいいのか?
息子さんに、連絡しないことが"最善"なのか?
私たちは悩みぬいた末、息子さんに電話をしました。
すると彼は静かにこう言いました。
「本人がそう言っていたんですね。でも・・・連絡ありがとうございます。すぐに帰ります」

そしてカズ子さんは、息子さんやお孫さんと最期を共にし、「い~ぱい、幸せ」と微笑みながら息を引き取られました。献体の希望は辞退され、葬儀が行われました。遺されたご家族には、悔いのない時間が流れていたように思います。
長男さんから届いた手紙には、 「母ときちんと別れができたことに、心から感謝しています」と綴られていました。
本人の意思には反してしまったかもしれません。
でも、「それでもよかった」と思える最期が、そこにはありました。

終末期の支援とは、意思を"守る"こと以上に、その人と関わる人々にとって"納得できる最期"をともに悩み、模索し、追求すること──。最善は一つではなく、状況とともに変わりうる、その柔軟な支援こそが本当の支援です。

私たちは今、終末期の「意思決定支援」が求められる時代にいます。 けれど、"決めたあとの支援"もまた、同じくらい大切なのです。
「その人にとっての最善」は一つではなく、 最期の瞬間まで一緒に悩み、考え続けること──
それが、本当に意味のある支援なのかもしれません。

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