たんぽぽコラム

おうちでの看取り

著者:永井康徳

  

第55回 死を考えることは、今を大切に生きること

「縁起でもないから、そんな話はしたくない」――死の話をすると、たいていこう言われます。たしかに、死はできれば考えたくないものです。私だってそうです。でも、在宅医としてたくさんの方の最期に立ち会ってきて、はっきり思うことがあります。死を見つめることは、暗くなることではありません。むしろ、今日をどう生きるかを考えることなのです。
私たちは頭では「人はいつか死ぬ」と知っています。けれど、その“いつか”を自分のこととしては、なかなか考えません。だからこそ、病気や老いが目の前に来たときに、本人も家族も慌てます。何を大切にしたいのか、どこで過ごしたいのか、どこまで治療を望むのか。普段から少しでも考えておくことが、その人らしい最期につながります。

死は、みんなに平等にやってくる
当たり前の話ですが、死亡率は100%です。例外はありません。ところが医療の現場にいると、いつのまにか「死は敗北だ」という空気が強くなります。病気を治す、異常値を改善する。それはもちろん大事です。でも、人はいつか必ず死ぬ。その事実まで医療で消すことはできません。
私は、死には三つの段階があると思っています。まずはニュースで見るような「三人称の死」。次に、親や配偶者、友人など身近な人を失う「二人称の死」。そして最後に、自分自身の問題としての「一人称の死」です。本当に大切なのは、一人称の死を少しでも考えられるようになることです。

問いを持つだけで、毎日の優先順位が変わる
「もし今日が人生最後の日だとしたら、自分はどう過ごしたいだろう」――この問いは重たいようでいて、実はとても実用的です。会いたい人に会う。食べたいものを食べる。先延ばしにしていたことをやる。謝りたい相手に謝る。伝えたい言葉を伝える。死を考えることは、難しい哲学ではなく、日々の優先順位を整える作業なのです。
明日が当然に来ると思っていると、私たちは大切なことを後回しにします。けれど、有限であることを意識した瞬間に、今日という一日の重みが変わります。

長生きと、よく生きることは同じではない
日本は長寿国です。でも、長生きできればそれで幸せかというと、そんな単純な話ではありません。健康寿命を過ぎてから、長く介護や医療に支えられながら生きる時間も少なくないからです。
多くの人が理想に挙げる「ピンピンコロリ」は、現実にはそう多くありません。だからこそ、私は「どれだけ長く生きるか」だけでなく、「どう生き、どう終えるか」を考えることが大事だと思っています。
終末期になっても、その人の人生は続いています。食べること、笑うこと、家族と話すこと、風呂に入ること、好きな音楽を聴くこと。そういう日常の一つひとつが、その人らしさなのです。

102歳の女性が教えてくれたこと
ある102歳の女性がいました。体が弱ってきて、周囲は「点滴をしたほうがいいのでは」と心配しました。けれどご本人は、無理な医療を望みませんでした。私はその方の最期をそばで見ながら、死は必ずしも苦しいものではない、自然にしぼんでいくように静かに人生を閉じることもあるのだと、あらためて感じました。
ご家族にとっては、何もしないように見える時間がとても不安です。でも、終末期には“何かを足すこと”だけがケアではありません。足しすぎないことが、その人を楽にすることもあります。ご家族が「こういうお別れでよかった」と話してくださったことが、今も印象に残っています。

死を考えることは、生きる姿勢を整えること
死を考えるというと、終活や手続きの準備だけを思い浮かべる方もいます。もちろんそれも大切です。けれど本質はもっとシンプルです。
死を考えることは、今の自分の生き方を整えることです。本当はやりたいことがあるのに遠慮していないか。家族に伝えたいことを飲み込んでいないか。自分の人生のハンドルを人任せにしていないか。
死をタブーにすると、生も薄くなります。逆に、死を少しだけ引き寄せて考えられるようになると、今日という一日を丁寧に生きる感覚が戻ってきます。
人はいつか死にます。でも、その日まで生きています。だったら、最期までその人らしく生きるほうがいい。私は在宅医療の現場で、何度もそう教えられてきました。

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