たんぽぽコラム

在宅医療の質を高める

著者:永井康徳

  

第20回 「治す医療」から「支える医療」への変革

厚生労働省平成28年度診療報酬改定の基本方針(骨子案)の超高齢社会における医療政策の基本方向の中で以下のように述べられています。
『「治す」医療から「治せなくても支える医療」への転換が必要である。医療や介護が必要な状態になっても、できる限り住み慣れた地域で安心して生活を継続し、尊厳をもって人生の最期を迎えることができるようにしていくことが重要。』
「治す医療」は引き続き発展させながら、避けられない老いや死、そして患者その人の生き方にしっかりと向き合い、寄り添う医療の実現が今、求められているのです。

老衰とは、文字通り「老いて心身が衰えること」。老衰死とは、高齢の方の死因で特定できる病気がなく、加齢に伴って自然に生を閉じることです。人は亡くなる前に食べられなくなることにより、脱水状態となって眠る時間が多くなり、動作能力が低下していきます。それは人が自然に亡くなる「過程」です。老衰死もこのような「過程」をたどります。

しかし、今の日本では、寿命に達するような高齢者であっても食事が摂れなくなったら、まずは病院で検査をします。病気が見つかると主治医から手術や投薬などの治療の選択肢が提示されますし、原因が特定できなくても、輸液や胃ろう、経鼻チューブによる栄養補給の選択肢を提示されるでしょう。そこで、「何もせずに自然に看取る」という選択肢を同時に提示できるかどうかなのです。
「治すこと」を目指して発展してきた日本の医療では、「自然のままに看取る」という選択肢をほとんど提示してこなかったのが実情です。治せる病気には当然、治療が必要です。しかし、老化やまもなく訪れようとする死に正面から向き合わず、患者にとってつらい治療を続けてしまうということがあります。

今までの日本の医療は病気を治すことを目的としてきました。そのため、たとえそれが老衰や寿命による死であっても、治せないことは「医療の敗北」であると医師は考えてしまいます。そのような老いや死と向き会わずに先延ばしする医療から脱却することです。「治し続けた末の死ではなく、治せいない病や死、老化に向き合っていくこと」が大切ではないでしょうか?

多死社会の課題解決は、『自宅での看取りを日本に取り戻す』ことです。日本では約7割から8割の人が病院で亡くなっていますが、これは世界的に見ると特別なことです。介護や福祉の先進国であるオランダやスウェーデンでは40%前後と日本の約半分、他国と比べても日本は世界で最も病院看取りの割合が高い国なのです。
「人生の最期は病院で迎えるのがあたりまえ」と多くの日本人は考えていますが、1960年代までは自宅で亡くなることが普通でした。それが国民皆保険の施行や医療制度の充実、栄養状態の改善、医療の発展に伴って最期を病院で亡くなる人が増加し、1970年代後半には逆転します。
病院で亡くなることが常識となってしまっている今の日本では、家族を自宅で看取ったという経験をもつ人も少なくなりました。それは医療・介護の専門職にしても同じです。そのため、自宅で療養していても、前と同じように食べられなくなったからといって入院させて、点滴や胃ろうを造って栄養補給を続け、そのまま病院で最期を迎えるということが往々にして起こっています。

たとえ、本人や家族が自宅で最期を迎えたいと希望しても、周囲から入院や点滴をしないことを非難され、「本当にこれで良いのか」と家族の気持ちが揺らいでしまうこともあります。
病院だけでなく、自宅での看取りという選択肢があること。そして、その選択肢は決して特別なことでも、困難が伴うことでもないということを一般の人も知っていれば、自宅で最期を迎えたいと思う人が、その意思を叶えられるようになるでしょう。医療従事者は、病院での看取りだけでなく、住み慣れた自宅での看取りの選択肢があることを患者や家族だけでなく、一般の人々にも伝えていくことが大切ではないでしょうか。

認知症の進行や障害などで、患者本人が意思を伝えられないときには、あたりまえのように家族が代わって決定をしています。その意思は、誰の意思でしょうか?
わかりやすい例が、重度の認知症患者への胃ろうの導入です。胃ろうの適応ありと診断された対象者のほとんどが胃ろう栄養を行なっています。その導入の際に患者本人の生き方や価値観は尊重されているのでしょうか?医療従事者からの「本人なら、どうしたいと言うと思いますか」という一言と、そこに思いを馳せる想像力や思いやりが意思決定の場面には必要だと思います。
家族や医療従事者だけで方針を決めるのではなく、患者本人にとって最善の医療を提供できる、患者本人の生き方と向き合う医療が求められていると思います。

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