たんぽぽコラム

在宅医療の質を高める

著者:永井康徳

  

第26回 奇跡の人

「母が亡くなりました。そのことを先生にお伝えしたくて、迷いに迷ったのですが伺いました」

そう言って私を訪ねてきてくれたショウコさん(仮名)は、以前、当院にいた患者さんの娘さんです。開業して3年、在宅医療専門クリニックとしてまだ駆け出しの頃にショウコさんのお母さんは紹介されてきました。お母さんは、私が「奇跡の人」として自著で紹介したほどに印象に残っている患者さんです。

ショウコさんのお母さん、ノブコさん(仮名)は、79歳で脳梗塞の後遺症で寝たきりになり、意識もなく、気管切開をして胃ろう栄養で生きながらえているような状態でした。「病院にいてもこのまま死を待つだけなら、自宅に連れて帰ってできるだけの世話をしてあげたい」と考えたショウコさんは、病院の主治医に相談しました。すると、「こんな状態のお母さんを自宅で介護ができるのですか?そんな話は聞いたことがない」と呆れられたそうです。病院の退院調整係が訪問診療を行っている市内の医療機関に相談しても断られるばかりで、ついに新参者のたんぽぽクリニックに「受け入れできないか?」とお鉢が回ってきたのでした。当時の私は、愛媛県初となる在宅医療専門クリニックを立ち上げ、外来をしながら訪問を行う医療機関では対応が難しいような重度の在宅患者を診たいと意気込んでいたこともあって「診させていただきます!」と即答しました。

私が病院でノブコさんと対面した時、「自宅に戻られても数日でお亡くなりになるだろう。せめて自宅での看取りが穏やかなものになれば」と思ったほど容体が悪かったのですが、ショウコさんは自宅に連れて帰ると決心していました。そこで、介護経験のないショウコさんが少しでも安心して介護ができるようにと、多職種と協力して療養環境や介護サービスを整えた上でお母さんを退院させました。1日3回の胃ろうからの栄養剤注入や1時間毎の痰の吸引、おむつ交換や体位変換など、ショウコさんは初めての介護に一生懸命に取り組み、さらには刺激になればと、意識のないお母さんのためにテレビを付けたり、好きだった本を読み聞かせていたのでした。ショウコさんは「せめて手引きで歩けるくらいに回復してくれれば」と言われていたのですが、「それはさすがに無理だろう」と私は内心で思っていました。

それから1週間、2週間と過ぎていき、私の見立てに反してノブコさんの容体は安定していきました。それどころか、呼びかけや吸引、体位交換の際に、微かに反応するようになってきたのです。しばらくすると目を開けられるようになり、1年後には喋れないけれども目で合図が送れるまでに回復していました。訪問リハビリで本格的なリハビリを始めたことで、ノブコさんはさらに身体機能を取り戻していきました。痰吸引が不要になったので気管切開部を閉鎖し、話す訓練を始めるまでになったのです。

そして、訪問診療で伺ったある日、私は自分の目を疑いました。そこには、介護ベッドに腰をかけて座り、新聞を読んでいるノブコさんがいたのです。あまりに驚いて声を出せないでいると、「あら、先生、どうしたの?」と逆にノブコさんに声をかけられてしまいました。ショウコさんはそばで「お母さんが座って新聞を読めるようになったんです」と泣きながら喜んでいました。さらに、ノブコさんは口から食べられるようにもなって、胃ろうも不要になったのでした。
この驚異的な回復は今にしてみれば、脳梗塞で発症した水頭症が改善したためと考えられるのですが、それにしても奇跡的なことです。ノブコさんはその後もリハビリを続けて、自分で歩いてトイレに行けるようになり、娘のショウコさんと散歩に出かけるまでになりました。

たんぽぽクリニックでは患者さんのお誕生日には花束を贈って記念写真を撮り、額装してプレゼントしているのですが、7回目のお誕生日の時にお二人と一緒に7年分の写真を並べて見比べてみたことがあります。年を追うごとにノブコさんが元気になっていくのが、写真からもはっきりとわかりました。ノブコさんから「最初の頃のことは全く覚えていないんですよ。先生にも大変お世話になったそうですね。ありがとうございます」と言われ、その隣でショウコさんが涙を拭っていたのを今でも鮮明に覚えています。私も、もしも自分が他の医療機関と同じように「重症の人は診ない」と断っていたら、このような奇跡は起こらなかったかもしれないと思うと感無量でした。

ノブコさんは自分で歩いて外来受診ができるようになったため、2年間ほどたんぽぽクリニックを離れていたこともありました。その間、ノブコさんは趣味の読書を楽しんだり、娘さんとコンサートに出かけたりしていたそうです。88歳の頃に通院が難しくなったため、再度たんぽぽクリニックで訪問診療を行うようになりました。しかし、当時、たんぽぽクリニックは松山市内全域に患者が広がったためにクリニックを東西に分けて、患者を分担して診ていました。私がいる本院は西地域を担当していて、ノブコさんとショウコさんは市の東端に住んでいたため、分院が担当することになりました。その後、分院が独立し、ノブコさんはそのまま当院から離れることになったのです。

「先日、母が98歳で入院先で亡くなりました。くも膜下出血だったんですが、前日まで自宅で普段通り生活していて、救急車で運ばれた翌日に亡くなりました。最期も穏やかでした」と話すショウコさんには溢れるほどの思いがあったのでしょう。不安の中で母親の介護が始まったものの、回復していった感動の日々のこと、当院が診ていた頃に訪問していた看護師や医師の思い出など話が尽きることがありませんでした。「永井先生に診てもらっていればよかったとずっと悔やんでいた」と言われた時には、私も申し訳なく思いました。そして、「母が亡くなった時、先生とどうしても話したくなった。離れて10年も経っているのに会いに行ってもいいものなのか?迷惑ではないのか?と散々悩みました」と言われたのですが、私にとっては迷惑どころか、心底嬉しく、ありがたいことだとお伝えしました。

ショウコさんの19年にも及ぶ介護生活は決して良いことばかりではなく、介護を手伝っていた弟さんをガンで亡くすなど、辛いこともありました。それでも、お母さんが良くなってからは一緒に楽しめることが増え、私が行くことを親子でとても喜んでくれていました。「介護」と言うより、世話の必要な母親との生活を楽しんでいるようにさえ見えました。

重症者は診ないと断ったり、回復するわけがないと決めつけたり、諦めたりしないこと。ほとんどの患者さんが「容体が悪化して看取り」という流れであったとしても、稀に回復する人もいること。最初のうちは大変だったとしても、介護者が介護を楽しめるようになったら、長期間の介護でさえ、良い時間に変えられること。そんな可能性が在宅医療や介護にはあるということを「奇跡の人」とその娘さんは教えてくれました。

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